* 本文で言及されている表、地図、画像は近日中に挿入いたします。(2004.6.27) リュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツさんに聞く
はじめにリュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツ(旧姓ヤシュコフ)は、日本で生まれて日本で育ったロシア人である。20歳代まではほぼ長崎で過ごしたが、結婚後は現在に至るまで、東京で暮らしている。以下の記述は彼女が語った思い出を清水がまとめ、適宜注を補ったものである。また使用した写真はすべてシュウエツ家に残されたものである。
1. ヤシュコフ家と長崎のロシア人について
私の父はセミョーン・ニコラエヴィチ・ヤシュコフといって、1896年にサマーラで生まれました。母アレクサンドラ・ドミートリエヴナもサマーラの人で、父と同じ1896年生まれです。二人は故郷で結婚し、長男イワンが1920年に生まれました。
ロシア革命が起きると、父は白軍の兵士となり戦闘に参加しました。赤軍の攻勢に、父の 部隊は撤退しながらどんどん東へと向かったそうです。そして父は瀕死の重傷を負い、意識はあるものの、身体を動かすことができず、もう少しで仲間から置いて行かれそうになりました。それを父の従兄弟が絶対に生きているから連れて行ってくれと頼んでくれたので、ようやく生き延びて満州までたどり着いたのです。
サマーラでは、父の消息がわからないまま何年かが過ぎ、周囲の人たちは、母にもうあきらめて再婚を考えたほうがいいと言ったそうですが、母には再婚の意志はありませんでした。
一方父は、その後下関市の山陽ホテルでパン職人を募集していることを知り、日本に行くことを決めたのです。1927年のことです。
(*)山陽ホテルは1901年に山陽鉄道の馬関駅(下関市西細江)が開業したのを契機に、翌1902年に鉄道ホテル第一号として開業した。各界の要人が宿泊した由緒あるホテルであった。1922年に焼失したが、1924年に再建され、1942年まで営業を続けた(下関市観光パンフレットより)。そして、何とか家族を迎えて生活していけると思い、1928年に故郷から妻子を呼び寄せたのです。父はいわゆる無国籍ロシア人でしたが、サマーラにいた母はソ連国籍になっていました。というのは、ソ連から中国に出国するため、母は共産党員だった従兄弟の力を借りてパスポートを作ってもらったからです。そしてハルビンまで迎えに出て行った父と無事に再会できたのです。もっともその後は、パスポートを隠して父と同じ避難民として日本で生活を続けました。
下関では長女ワレンチナが1930年に生まれ、二女となる私が1932年に生まれました。私の代父は小倉に住んでいたロシア人でコンスタンチン・ゴロワノフという人です。
(*)コンスタンチン・ゴロワノフは1933年に全露ファシスト党小倉支部の支部長になっている。しかし病弱で、ほとんど活動らしい活動は行っていないという外事警察の報告がある。また、同党の東京支部が九州一帯に勢力拡大をはかるべく宣伝員を派遣し、1934年に佐賀市に九州支部が設けられ、別府支部も開設されている(『昭和11年 外事警察概況』、『昭和12年 外事警察概況』)。洗礼は、他の姉妹は長崎の正教会の高井万亀尾神父がしてくれたのですが、私の時だけ高井神父の都合がつかなかったので、神戸のボブロフ神父にお願いしました。
(*)アレクサンドル・ボブロフは、1925年に設立されたロジェストヴェンナヤ教会(神戸市葺合区[現中央区])の神父。1930年10月7日に、大主教セルギイの命名祝典に招待されて上京した時の記録には、47歳とある(『昭和12年 外事警察概況』、自昭和5年10月1日至昭和5年12月31日「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 蘇連邦人ノ部」外交史料館所蔵)私が3歳の時に、一家は下関から長崎に引っ越しました。父はここでパン屋を開いたのです。この時、父は東日本へ行くか西日本に残るか迷ったらしいのですが、やはり知り合いの多い西日本を選んだのです。そして長崎では、1936年に三女ジナイーダ、1942年に四女クラウディアが生まれました。
長崎には上海との間に定期航路があって、上海丸と長崎丸という二隻が就航していました。この二隻は海上ですれ違うんですよ。戦争前はこの航路によるロシア人の往来が結構ありましたから、街でもよくロシア人をみかけました。
(*)日本郵船株式会社が1923年2月に開設した航路で、就航した長崎丸と上海丸は、日華連絡船と呼ばれた。1940年の年間旅客数は、約11万人。1942年5月17日に長崎丸が機雷にふれて沈没。翌年10月30日に上海丸が日本の兵員輸送船と衝突して沈没、同航路に終止符が打たれた(『市制百年長崎年表』)。家は大浦天主堂の下、南山手12番地のアパートで(地図の1)、斜面の中腹にあって、まわりには、外国人ばかりが住んでいました。ここには3年ぐらいいました。
それから南山手7番地の洋館に移りました(地図の2)。この家にはウラジーミル・セイフリンというロシア人が住んでいたのですが、彼が上海へ引っ越したので、そのあとに入ったわけです。この人には奥さんと娘さんがいました。娘さんが持っていたものでしょうね、ドール・ハウスが残されていたんです。ミニチュアの家具とか、色々かわいらしいものがついていて、私たち姉妹はこのドール・ハウスに大喜びして遊んだことを覚えています。
(*)ウラジーミル・セイフリンは元陸軍少将で、佐世保商業学校のロシア語教師をしていた。また1931年に設立された「露国正統王朝派同盟日本帝国陸海軍支部軍団」の代表でもあった(『昭和12年 外事警察概況』、自昭和5年10月1日至昭和5年12月31日「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 蘇連邦人ノ部」外交史料館所蔵)。家には中国人のニャーニャ(乳母)がいて、私はそれまでロシア語しかできなかったのですが、この人に日本語を教えてもらいました。それから太平洋戦争が始まって、私たちの家があった一帯は、何か軍の司令部になるというので、強制的に立ち退かされ、小曽根という一番下の地区に移り住みました。
(*)1942年に、それまで外浪町にあった長崎要塞司令部が、南山手町に移転した(『市制百年長崎年表』)。それは私が9歳の時です。その家は日本家屋で、日当たりがよくないし、湿気があるし、父が子どもたちの健康を考えて、改造してくれるように頼みました。私たち子どもは畳の部屋がいいと言いましたけれど、一階は畳をはいで、全部木の床にして、二階は畳の部屋のまま使いました。ところが、ここも空襲に備えて打ち壊されることになり、南山手22番地のシェルビーニナというお婆さんの大きな洋館に間借りするようになったのです(地図の3)。彼女のお母さんは日本人ですが、お父さんがアフリカの人で、長崎で貿易商をしていたそうです。ですから、肌の色が浅黒く、髪の毛もちょっと縮れたかんじでした。私たちは「バーブシュカ」と呼んでいました。その頃すでに夫に先立たれて、一人暮らしだったのですが、夫という人は、ロシア人で船長をしていました。数年前にウラジオストクに行った時に、墓地でキャプテン・シェルビーニンと彫ってあるお墓を見つけました。彼女のご主人のお墓でしょうね。長崎には彼女のお父さんのカトリックのお墓、お母さんの仏教のお墓、それに彼女自身はロシア正教に入信したので、正教のお墓と3つ並んでいます。
それから函館にいた貿易商のデンビー兄弟は、仕事の関係で度々上海に行っていたようですが、長崎から渡航するので、「バーブシュカ」とはずいぶん親しかったらしく、彼女はよくデンビー兄弟の話をしていました。
この家は二階建てで、二階に家主のシェルビーニナとヤシュコフ一家が住み、一階にもロシア人が間借りしていました。ワシーリイ・アラジェフと彼の娘、それにジアコフです。アラジェフの娘のお母さんは日本人で、どこかの仲居さんということでしたが、それが誰なのかは秘密で、娘さん自身も最後まで教えてもらえなかったのです。かわいそうでした。戦後、この父娘はサンフランシスコに行きました。佐賀にはアラジェフの兄弟がいましたね、ニコライ・アラジェフという名前です。ジアコフは洋服行商をしていました。
そのほか、市内にはロシア人がやっている洋服店が二軒ありました。一軒はチェレバノフの店です。この店には何人かロシア人の店員もいました。だいたいそんなところが、私が覚えている長崎市のロシア人ですね。
(*)ニコライ・アラジェフは全露ファシスト党九州支部の支部長であった(『昭和11年外事警察概況』)。アレクセイ・ミハイロヴィチ・チェレバノフは長崎市鍛冶町34に住んでいた。1941年12月8日、外謀容疑者全国一斉検挙の時に、無線電信法違反で検挙され、42年3月9日に釈放された(『昭和17年 外事警察概況』)。
アレクサンダー・ジアコフは1922年11月からここに住んでいた(自昭和9年7月至昭和10年6月「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂 蘇連邦人ノ部」外交史料館所蔵)。長崎在留ロシア人数の推移を右表に掲げておく。ロシア領事館は、私たちが行った時にはもうなくなっていました。元領事が住んでいたという屋敷が残っていましたけれど。建物は空き家になっていて、中国人の管理人がいました。住所は南山手19番地です。戦争が終わって、ソ連の大使館から、この空き地を使って家を建ててもよいと父に話があったんですが、自分の土地でもないしとやめました。そのうち近所の人が、無断でここに家を建て始めたんです。きちんと管理しなかった大使館もまずかったんでしょうね。
(*)この19番地という一画(473坪)はイギリス人の永代借地だったが、1894年にニコライ・カリーカーフというロシア人が譲り受け、1902年になってさらにガガーリン領事が譲り受けて領事館とした。日露戦争時に一次閉館したが、1906年に再開した。1915年に大連から転任したアレクサンドル・マクシモフ領事は、革命後も引き続き留まっていたが、1925年3月15日に長崎を去った。その後建物は荒廃し周囲には雑草が生い茂り、付近の住民は幽霊屋敷と呼んでいたという。1942年3月31日、法律改正により永代借地権が消滅したため、その後はソ連政府が所有権を取得した(『外事警察報』第29号、『昭和17年 外事警察概況』、『市制百年 長崎市年表』)。
なお、1926年9月にソ連からテル・アサツーロフ領事が着任し、10月3日に旧義勇艦隊長崎支店の跡地(常盤町4番地)のソ連領事館で国旗掲揚式を行ったが、すぐに閉館となった(外務省編『日ソ交渉史』、『外事警察報』41号)。それから長崎のロシア正教会は、南山手5番地にあって、この教会は神父の高井万亀尾さんが作ったものでしたが、戦争中、やはり軍の司令部になるとかで西山町の諏訪神社の近くに移りました。そのあと原爆でこの教会が壊されたので、教会の備品などを当時、私たちの住む家で預かっていたこともありました。
(*)長崎はカトリックと仏教の影響が強く、正教の伝道は活発ではなかった。在留ロシア人たちはロシア領事館付属の教会に通っていた。1906年、ニコライ大主教の命で、この付属教会にアントニイ高井神父が派遣されたことをもって、日本正教会の長崎における実質的な活動が開始されたとみられる。すなわち1907年『大日本正教会神品公会議事録』によれば、長崎の信者については、7戸・28人、洗礼者は大人3人、小人4人という記録がある。なお、この敷地は旧ロシア海軍病院のものであったが、1917年に高井神父名義になり、長崎正教会の聖堂が建立された。西山町の聖堂は1943年に建立されたが、原爆で破壊され、高井神父も被爆した(尾田泰彦氏の調査による)。私たちの学校のことですが、兄は、日本の学校で勉強したあと、1933年か34年に、家族と離れてロシア語の勉強をするのにハルビンの学校に入りました。ゴロワノフの息子のベンヤミンと一緒です。そして学校を卒業すると一度長崎にもどってきて、チェレバノフの洋服店に勤めたのですが、兄は本当はオーストラリアに行きたかったのです。ところが父が反対だったので、またハルビンにもどり、そこで確か銀行か信託会社に就職しました。姉は南山手の現在マリア園といって児童養護施設になっていますが、そこのマリア学院で英語とフランス語のクラスに入りました。もしかしたら、清心女学校といったかもしれません。この学校には初等科はなかったのですが、私も同じ年頃の外国人の子ども3、4人でクラスを作ってもらって、ここで日本語の勉強をしていたのです。でも、この学校は戦争の関係でなくなってしまったので、1942年、3年生から長崎市立浪ノ平小学校に入りました。
(*)マリア園は、フランス・マリア会の修道院として1898年に建設され、当時は修道院本部・授産所・学校・寄宿舎として使われた。現在はシュファイユの幼きイエズス修道会のシスターたちが運営している(『長崎異人街史』)2. 第二次世界大戦中の苦難
1941年の復活祭の頃、忘れられない事件が起きました。ハルビンからやってきたあるロシア人が、「バーブシュカ」の家に何日か逗留したことが、そもそもの始まりでした。長崎の特高警察は、この人をスパイだと思い、市内のロシア人たちに疑いの目を向けたのです。
ちょうどその頃は、パン屋ができずに父は洋服の行商をしていて、家を空けていたのですが、なかなか帰ってこなかったんです。そこになじみの警察の人が来て、この人はとてもいい人でしたが、こっそり、事情を教えてくれました。市内のロシア人たちは男も女もみんな警察署に連行されることになっていて、父はすでに連れて行かれたし、すぐに母にも出頭するようにと言ってくるはずだというのです。
それを聞いた母は、うちの手伝いをしてくれていた年輩の日本人女性のところに行って、事情を打ち明け、きっと警察が子どもを預かれというでしょうが、病気でとても面倒は見られないと断ってくださいと頼んだのです。実際、本当にその通りになりました。警察は母にだけ出頭するよう命じたのです。そして母と口裏をあわせたお手伝いさんのおかげで、子どもの面倒をみる人がいないからと、母だけは抑留を免れたのです。「バーブシュカ」をはじめ、何人かロシア人が連行されていくのを私は見ていました。
その後、私が父に食事の差し入れをするのに、警察に行ったんですが、一階の留置所に父の姿が見えなかったのです。二階の外事課で声がしたので、てっきり父が釈放されたものと思って、喜んで階段を駆け上がってドアをあけたところ、父がひざまずかされて、特高に殴られているのを目撃してしまったのです。私は思わず声をあげてしまったのですが、とても大きなショックを受けました。今でもその光景は忘れられません。
何日か拘束されたあと、父は家にもどされました。後日、ハルビンから来たロシア人はソ連のスパイではなくて、日本側のスパイであったことがわかり、長崎の警察ではそのため、何人かが処分されたようです。
いよいよ、戦争が始まると、父はパン工場で配給の粉でパンを焼くようになりました。納入先は軍隊です。いまでいう、コッペパンのようなパンですが、私たち外国人にも1日1人に3本のパンが支給されましたから、6人家族だと18本になり、とても全部食べきれないので、近所の日本人にもわけてあげました。その人たちは、かわりに砂糖やら何やらを持ってきてくれるのです。近所の人たちとは助け合って暮らしました。
でも、中にはスパイ呼ばわりする人もいましたし、母にモンペをはけとせまる人もいましたけれど。母はズボンなんてはいたことがないし、太っていたので入らなかったんです。母は日本語もあまり話せませんでしたしね。私たち娘はモンペをはきましたよ。それから、防空演習なんていうのにも参加しました。
父がね、戦争中なんだから、外国人にとって嫌なことやつらいことがあるのは、当たり前だと、私たち子どもに言って聞かせましたから、私も納得していました。長崎の悟真寺のご住職は木津さんといって、ロシア人墓地も守ってくれていましたけれど、戦争中にはその墓の下に防空壕が掘られたんですよ。気持ちいいものじゃないから、誰も入らないでしょう。私は子どもだったから入ってはみましたけれど。
アメリカの爆撃機が、何か日本軍の施設でもあると思ったのか、そこに爆弾を落としたので、お墓がだいぶ壊されたんです。幸い、誰もそこには入っていなかったから犠牲者は出ませんでした。
(*)太平洋戦争前には270基あまりあったロシア人の墓碑は、この爆撃で大半が姿を消した。境界にあった煉瓦塀も取り去られ、往時の面影は全く失われた。ロシア人墓地は上中下の三段に分かれていて、二段目の礼拝堂には大理石の立塔があったが、今はない(『長崎市制六十五年史』)。戦争も終わる頃ですが、1945年6月に、私たち外国人は福岡県の英彦山に強制疎開を命じられました。神社のもっと上のほうに、三井が所有していた大きな家があって、そこに私たち一家と、「バーブシュカ」と、アラジェフ父娘の3組が移住しました。他にも別府から来たロシア人たちや、熊本から来たシスターたちなど九州各地から来た外国人が、近くの旅館を一軒借り切って、そこで生活することになったのです。この頃は外国人はたいてい強制疎開させられて、神戸では有馬に集められたでしょ。でもシュウエツのように東京から出ないですんだ家族もありましたね。
(*)横浜や東京の外国人の疎開先としては、軽井沢が有名であるが、シュウエツ家をはじめ、かなりまとまった数のロシア人は、都内板橋区大山に集められ、当時は「ロスケ村」などと呼ばれていた(小室薫氏談)。私たちの疎開先は山の上だったので、配給の粉などは背中に背負ってね、坂道を運んだんですよ。野菜なんかは農家からわけてもらえましたけれど、そのうち訪ねていっても、断られるようになりました。どうしてかというと、憲兵が見張っているから、話をしたりするとスパイに間違われるというのね。でも、夜になったら外に出しておくから、黙って持って行ってと言ってくれました。
ある時、いつものように荷物を背負って山道を歩いていて、途中に石碑が建っているところがあって、そこで休んでいたんです。シスターたちも、ちょうどそこに休憩していました。そうしたらアメリカの飛行機が急降下してきて、はっきりとパイロットの顔も見えるんですよ。ところが、シスターもいるし、外国人だとわかったらしく、爆弾を落とさないで、飛行機はそのまま急上昇して去っていきました。神戸の私の知っているロシア人も、同じような体験があって、低空飛行だからパイロットがはっきり見えて、日本人は狙われて撃たれたのに、自分は撃たれなかったと言っています。本当にそういうことがありました。
終戦間近のことですが、憲兵が来て、外国人の男だけを旅館に集めるとのことで、父も行きました。そこで憲兵は、男だけで山に木を切りに行くことになったと説明したそうです。女、子どもは足手まといだから連れて行かないと。父は軍人だったし、何か変だと咄嗟に感じたので、どうして家族も一緒じゃだめなのか、私は家族と一緒じゃなければいやだと言ったそうです。恐らく男たちをまとめて殺そうとしたんでしょうね。ところがそうこうしているうちに、天皇が日本の降伏をラジオで放送したので、もうそれどころではなくなったというわけなんです。
私たちはその日の午後3時頃、父から戦争が終わったと聞きました。もう、うれしくて、うれしくて、ちょうどご飯を炊いていたんですが、すっかり忘れて真っ黒に焦げていても気がつかなかったことを覚えています。憲兵たちはね、進駐軍には自分たちがひどいことをしたと話さないでくれと、そう父に言ったそうです。